中学受験時代 母親の勲章

20数年前の中学受験時代を振り返るシリーズ、前エピソードはこちら

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母親トラ

私の母は、寅年生まれである。中学受験は、寅年の母親が主導していた。

カリキュラムを決め、勉強時間や生活時間を管理する。志望校も母親が決める。子どもはただ言われたとおりに動き、勉強するだけである。

そんな勉強だけの生活の中で、最も辛いのは、なにかにつけて母親から暴力が振るわれることだった。
暴力のきっかけはささいなことである。テストの点数が悪かったことだけではない。この問題に答えられなかった、この答えを間違えた、課題が終わらなかった、よそ見をしていて勉強していなかった、帰宅が遅かった、そのような日常の一つ一つの出来事で、暴力が始まった。


私は、自分の部屋のちゃぶ台で勉強していたが、母親は、たいていちゃぶ台に向かい合わせに座って勉強を監視していた。夜遅くまでの勉強で、あまりに眠くなった私がペンを握りながらうとうとすると、向かい側から母の蹴りが飛んでくる。顔を上げて母を見ると、トラの形相である。

あるときは、私が理科を勉強していると、ふいに

「南蛮貿易と朱印船貿易は何が違う!」

と、日本史の質問が飛んでくる。答えられなければ蹴りが入る、といった具合だ。

母親が家事などで席を立つときも、部屋のドアは常に開けるルールになっており、台所から丸見えである。

暴力のレベルは母の機嫌によってちがった。機嫌が一番良いときは、蹴りである。次に軽いのが、小突く、ノートを投げる。まあまあ機嫌が悪いときは、平手で頬を叩く。さらに機嫌が悪い時は、爪でばりっと顔をひっかく。機嫌が最悪なときは、私の髪を掴んで立たせ、部屋を引きずりまわす。私は必死にベッドの柵にしがみついていた事を覚えている。もれなく怒号がついてくる。

さすが寅年うまれの母親である。

質問に答えられないだけでこのような暴力沙汰になっていたのだから、毎日、2,3回は、蹴る、殴る、ひっかく、それに対して、私は泣く、叫ぶ、逃げるなどをしていて、阿鼻叫喚。勉強しているのか喧嘩をしているのかわからなかった。

その様子を見てたまりかねた、当時中学生の姉は、一度

「喧嘩している時間があるんだったら勉強したら。私が勉強見てあげようか」

と母に言ったそうである。

「私の教育方針に口を出さないで!」

と返されたそうだ(後日談)。

母親の勲章

この寅年ならではの、「ひっかく」という「しつけ」は、幼少期から頻繁になされていたことで、おかげで私は生傷が顔に耐えたことがなかった。母親は機嫌の悪さに任せて、思いっきりひっかくのだから、頬の肉が少し削れて血が出る。それがかさぶたになるまえに、また別の傷ができる。

顔にいくつも傷を作り、悲壮な面持ちで塾に通っていたものだから、学習塾でも私の母親の事は有名になり、

「あの母親は、包丁であの子を脅して勉強させている」

と言う噂が立った。実際包丁を出されたことまではなかったので、その噂は真実ではなかった。その噂は母の耳にも届いたが

「そんなのは無視していればいいだ。そんな噂が立てられるのは、子供に教育熱心な母親の勲章だ」と笑い飛ばした。

心も体もどこまでも強い母トラである。

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