反出生主義について

toddler wearing head scarf in bed

この動画を見ました。番組によれば、反出生主義とは、

生まれてきた以上、苦痛を感じる可能性があるのだから、すべての人類は生まれるべきではなかったし(誕生否定)、すべての人類は子供を生み出すべきではない(反出生)という考え方。幸せになる人もいるだろうが、快楽がなくても別に構わないから苦痛になりたくない、というものだそうです。

目次

自分の感覚と、種の本能のせめぎあい

この考え、分かるなあ、というのが第一印象でした。

「生まれてきたのは失敗だ」がモットーの家に生まれて、親の暴力や暴言などが日常茶飯事の、どちらかと言えば苦痛がある青春時代を過ごしました。同じ家で育った姉は昔、自殺未遂をしました。死ぬ時の苦痛を差し引いてもなお生きることへの苦痛が大きかったからでした。

生きる苦痛の方が快楽より大きい。快楽なんていらないから、生きる苦痛を味わいたくなかった。小さいころずっと思っていました。なんなら、今からでも生きることをやめてしまえばこれからの苦痛もなくなる、とまで思っていました。

ただ、自分の感覚を「人類は」と一般化するのはなかなか難しいのではと思いました。

人類は、折れても伸びている庭のトマトのように、種として生き物として、生き延びようとしていると思います。そのために「子どもを産み育てるという志向」が本能レベルで体に刻まれていると思います。

例えば、女性は出産して授乳すればオキシトシンが出るし、子どもを守ろうとする本能が出てきます。出産という具体的な一場面に限らず、適齢期になれば男女ともに子供が欲しくなるケースもあります。

これは社会的な「あなたもそろそろ良い人をみつけてかわいい子の顔を見せて、、、」という圧力とか、後天的な感覚(幸せな家庭に育ったから幸せを再生産したいなど)ももちろんありますが(こういう社会的な圧力を作り出しているのも、社会的な生き物である人間の本能かもしれません)、

「子どもが欲しい」という先天的なDNAレベルでの刷り込みのように思います。そういう人間の生物的な、本能的な志向性を、自覚できる範囲の知性だけで変えてしまえるほど、人間の知性は成熟しているのでしょうか。

もし人間の知性が、本能を凌駕するほど成熟できているなら、現に生まれてしまった人間の苦痛をも救える何かを作りだしてくれればよいのに(そちらの方が喫緊の課題でしょうから)と思います。

私は少しつらい育ち方をして、若いころは「絶対に子供を作るまい」と、持てる限りの意思の力で思っていました。親も「子供を産んだのは失敗だ」と公言している人なので、「かわいい子を見せて、、」などという圧力は一切ありませんでした。

でもそんな自分が、コロッと変わって子供を産みました。

なぜ子供を産んだのか

あんなに「子供を産むまい」と思っていた自分がなぜ変わったのだろう、と、番組を見て考えました。

たしかに、当時、社会的な圧力は感じたし、子育て環境も整っていました(結婚して、パートナーの男性が子供を熱望していたとか、経済的に安定して、最悪1人になったとしても子どもを育てられる計算ができたとか)。

でもそれは、自分が半ば無意識に子育て環境を整えてきたのです。

例えば、パートナーの男性と結婚を決めたのは、彼が安心できる家庭が築けそうな、良いパパになりそうな人だからでした。バリバリ仕事をして上昇志向を持ち、たくさんのお金を稼ぐという人より、家庭を優先しそうな人が好みだったのは、単純な私の好みなのでしょうか、それとも、女性にありがちな巣籠志向なのでしょうか。

また、経済的に最悪1人になっても子供を育てられる環境を作るために、私は法律事務所をやめて、安定して育休も取りやすいインハウスに就職したのです。

キャリアのことしか考えていなかったその当時は「将来の子供のために、、」なんて微塵にも思っていないつもりでしたが。

ですから、あんなに「子どもは絶対生み出さない」と思っていた自分がコロッと変わったのは、社会的な圧力というより、自分自身の内なる変化、それも生物学的なもの、としか思えないのです。

子どもを産みたいと思うようになった私は、子どもを生み出す罪悪感との折り合いをつけるために様々な言い訳を重ねました。これは「生まれてきたのは失敗だ(だから子供を生み出すな)」という親への言い訳でもありました。

「私は、今、幸せになった。今は生まれてきてよかったと言える(…ほんとか?)。人生はそれなりに面白いものだと思う(,,,いちおう)。いつも幸せとは限らないけど、少なくともトータルとして生きるに値する。」

「子どもを生み出すのは、現代では親のエゴであると分かっている。赤ちゃんを産む以上、その子がよい人生を送れるように全力でサポートするから」

自分の心のつっこみには全力でふたをしつつ、そんな理屈で自己正当化しながら、出産したのでした。

出産してどうなったか

出産5日目、自分の感覚が変わった時を覚えています。

帝王切開になってしまい、人生初の開腹手術の大変さに「何の罰ゲームだ」と思っていた私が、隣に寝ていた赤ちゃんに気づいたのです。「もしかして、この赤ちゃんは、私の子ども?」「私が病院から一緒に連れて帰ってよいの?」と。

ちょうど、育児放棄気味だったオランウータンの母親が、急に子供の存在に気づいたように。

もちろんそれまでも気づいていたし、看護師さんや助産師さんに社交辞令的に「かわいい」と言いましたけど、本当はそう思う余裕さえなかったのです。

実感した時に、何とも言えない幸福感が沸き上がってきました。これまで感じたどのような幸せとも違う幸福感でした。今まで、大学や大きな試験に合格した時、告白されたときなどの「社会的な成功」から感じる幸福感とは、全く種類が違うものでした。

そして、それはあまりに強い感覚でした。その強さは、私の今までの逡巡(生まれてきて不幸だ等)を吹き飛ばし、代わりに一気に母性的な感覚を連れてきました。

それからの私は、子どもと肌を触れ合うことで幸せを感じ、子どもの安全に神経質になり、キャリアなどどうでもよくなり、ここに書いたような変化が一気に押し寄せたのでした。

まとめ

このような経験から私は、自分には少なくとも、生物的に幸福を感じる仕組みがあると思っています。自分でもコントロールすることができない生物性が、もしかしたら子供を作ることに肯定的にならせたのかもしれない。

また、子供が生まれて、私はやっと、自分の心のつっこみを消すことができました。

「今は生まれてきてよかったと思える(ほんとか?)

結局、他力本願だった、子どもで自己の幸せを補うのか、という別のつっこみが湧いてきますけど、それは開き直って「そうかもしれない」と思います。人間も生き物だもの、そのようにプログラムされた部分があるのかもしれない、と。

私の父は、昔こんなことを言っていました。

子供が、生まれてきてよかったと言ってくれたら、自分も生まれてきてよかったと思える。親として子育ては成功かもしれない

その時は私は、

自分の幸せを子どもに依存するんじゃないよ。。

と思ったものですが、そんな私も子供が生まれた後に、父に初めて、「私は生まれてきてよかった」と伝えることができました。結局そんなものかもしれない、だって人間だもの。

そうして生み出した命を、全力で守り育てていきたいと思います。

※すべては私の個人的な感覚であり、サンプル数は1です。出産に関する感覚、考えは個人により異なり、人生への意味付けも人それぞれだと思います。

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