どうやって死ねば良いのだろう。
そこから逆算して、どうやって生きれば良いのか考える。それが良い方法ではないかもしれないが。
将来的には、安楽死のような人生の終わり方がもっと普及してくれないだろうか。
介護のような人の手助けなく、最後の日々まで自立していられるなら、人生の選択肢はもっと多くなるのに。
それにしても、自分で自分の人生を終わらせるには勇気と覚悟がいるものだ。その勇気は、良い人生を生きて、生き切ったと思えたときに生まれるのだろう。どうすれば自分は良い人生を生きたと納得できるだろう。
家族を幸せの源にするということ
この前、父の様子を見に行った。
父が繰り返し言うことは「自分が東大から学位をもらい、大学の先生になった」こと。もしかしたら父にとって、人生で1番良かったことは、これなのかもしれないなと。
私にしたら、それが人生のハイライトなのは少し物悲しい。東大なんて、今やアジアで34位の1大学に過ぎないし、大学教授なんて単なる職業にすぎない。
でも、価値観は人それぞれだし、私の実家家族が過ごして来た時間や、両親の無数の夫婦喧嘩を考えるとき、家族と過ごした時間が幸せだと言わない父は正直だと思った。取り繕う気すらない、思いつくことすらない、清々しさ。
農村の出身で、農業高校を出たのに大学の先生になったことを武勇伝として何度も何度も繰り返す父は、徹頭徹尾、自分のことだけで人生が完結しているようだった。でも、彼が自己中だったわけでは決してなくて、私の記憶の中では、寡黙に、懸命に、家族のために働いていた父の姿がある。
単身赴任先から、週末だけ家族で過ごすために、金曜日の夜10時過ぎに重いカバンを持ち、駅から歩いて帰ってくる父。特急料金を節約するために鈍行で帰ってくる。それなのに、土曜日も、別の大学に講師のアルバイトに行っていた。週末のお休みが1日しかなくて、平日は単身赴任先のボロいアパートで自炊する一人暮らしなんて、ハードな人生だったろうと思う。大学を定年退職するときの最終講義にすら、家族は来なかった。そして、週末に疲れて寝ているわずかな時間で母と喧嘩。本当に時々、公園で私ら子どもとバトミントンをやって遊ぶ。
確かに父にとっては、家族は幸せの源ではなかったのだろう。母は、私や姉を蹴ったり叩いたりして育てながら何度も叫んだ「子どもなんていらない!私は子どもの奴隷。私の人生を返して!」。そうやって育てられた私の姉は「虐待サバイバー」なんてブログで、今も生い立ちの恨みを書いているくらいだし、私も自分の生まれ育ちが幸せだったとは言えない。多分、私の実家の家族みんなにとって、家族は幸せの源ではなかった。哀しい家族だった。
私や姉が生まれた時は、これでもきっと、幸せを夢見た両親だったのかもしれないのに、どこでどうして何かがねじれたのだろう。
40歳の願い
月日は流れて私は二児の母になり、先日、鎌倉の鶴岡八幡宮に行った。
子どもが生まれた時から、私の祈りはいつも、この家族全員の健康と幸せになった。
第二子が生まれたあたりから、私の祈りに、この家族を守れる強さを私にください、というものが加わった。
だって子どもが1人であれば経済的には余裕があったものが、2人に増えたことと円安で、余裕がなくなっているので。
夫にも、私と一緒になって幸せだったと思ってもらいたいと思う。この家族全員を、全力で守りたいと思うようになった。それしか今、本気でやりたいことがなくて、それが自分の幸せだなんて。
びっくりぽんな変化だ。昔は自分一人のことしか考えなかった、自己中だった私が。