虐待というべきなのか、暴力や暴言とともに育てた親に対する複雑な思い。
もう乗り越えたと思った。特段、もう恨んでもいないつもりだった。日常的に支配されることもない。
でもこの夏、父に会おうとして、母もそこにいると知った瞬間、母に会いたくないという単純な問題ではなく、ある種の強烈な感情ー恐怖感に近いのだろうかーに支配されて、自然体ではいられなくなった。緊張して、どこか身構えて、子供のことなどに気もまわらなくなるし、リラックスした状態ではいられなくて(まるで、自分の姿が、祖父の葬儀に行った時の母のようで、、これは世代で連鎖しているのだろうか)。
それに、昨日、私が「下の子にかまいすぎた」と機嫌を損ねた4歳の長女に、一生懸命「愛しているよ。大好きだよ。寂しい思いをさせてごめんね」と抱きしめて繰り返していたとき、「ごめんね」と謝るのに心の中で困難を感じている自分がいた。私はこう思っていた、『自分は愛しているとか大好きとか言われたことない。親に謝られたこともないのに』。このままでは、いつか子育てで行き詰ると思った。
加えて、私は「親として自然な姿」がわからない。暴力や暴言のもとで育ったので、自分の親のあり方があまりにも参考にならなかったから、自分のありのままで親になれない。
育児本を何冊も読んで「正解の親の姿は何か」を探しながら子供に接している。その結果、ほとんどなんでも甘やかすような接し方になって、「叱る」ということができない。例えば、自分が子供から叩かれても我慢する。夫がやっているように瞬発的に、自然に子供に注意したりできない。上の子が下の子を叩いた時とか、「これは叱らなければ!」と思う時にも、とっさに考えてしまうのだ。「どういうトーンで言ったらいいのか?どのくらい強くいうべきなのか?」そして叱る機会を逸する。
だって私は、本当はいくらでも冷酷になれる。自分が育てられたように育てるなら、叱るどころではなく子供の心を傷つける態度だって取れる。理性のたがを外したら、ものすごく疲れて不機嫌になった時には自分がどう子供に接するかわからない。
だから、このままではいけないと思った。
幼少期の記憶から、まだ自分は乗り越えていない。乗り越えたとかいないとか、そういう白黒つく問題ではなくて、「徐々に回復する旅」のようなものかもしれないが。
もう一度、過去を遡る旅に出ようと思った。