長らく放置していたこのHPを、自分語りのために始めたのは、姉のブログがきっかけです。姉はこのHPは知らないはず。
姉は、私がロースクールの最終学年だった時、自殺未遂をしました。(今は元気に生きている)。
★ ★ ★
当時、姉は実家を離れた地方で一人暮らしをしていた。
あの日、一人暮らしをしていた学生の私に、母から電話がかかってきました。
「最近、お姉ちゃんと連絡とった?」「いや、とっていない。どうしたの?」
「お姉ちゃんからはがきが来た。『〇日後に私に連絡をくださいって。』お姉ちゃんに連絡しようとしてもつながらない。なんだろう。どうしたらいいのこれ」
2人ともうすうす考えていることは同じようだった。私は、
「警察か大家さんに連絡して、事情を話して部屋に入ってもらって…」言い終わらないうちに母が電話を切った。
その後、母から、「大家さんに部屋に入ってもらった。ぐったりしているけど生きているって。病院に搬送してもらった。明日朝一でお姉ちゃんの所に行ってくる」という報告があった。
姉は、薬を大量に服用し、意識不明になって数日経過していた。うつ伏せの姿勢だったので呼吸はしていたが、体温は21度前後まで低下していて、意識は簡単に回復しなかった。両親は、医師から、姉が植物状態になったまま回復しない可能性がある、病院から実家まで空路移送する準備をしておくように、と告げられた。
★ ★ ★
母の電話があってから、容体が落ち着くまでの間、私は初めて「神頼み」を本気でした。特に姉の命が助かるまでは、毎分、毎時間、姉を助けてくださいと神に祈った。
姉のために犠牲にしてもいいと思う、自分の大切なものをリストアップして、私の人生でこれはあきらめるから助けてください、これも付け加えるから、と、一方的に神と取引していた。しまいに、あきらめることがなくなって「トイレに行きたいけど、あと〇時間はトイレを我慢するから、助けてください」というバカなことまでし始めた。
でも、結局のところ、私は姉の死に本気で直面していたわけではなかった。
親からの電話は「生きているから心配いらない。勉強に専念しなさい。入院先には来るな」の1点張りだったし、なにより姉という家族を失う想像ができなかったから。
そして、姉は回復してくれた。医学部生だった意地をかけた素晴らしい薬のチョイスで、後遺症も残らなかった。
★ ★ ★
姉の状態が良くなり、低下させていた意識レベルを回復させるという段になると、私は、姉が目を覚まして「生きている」と知ったらどう思うのか想像して恐ろしくなった。
絶望するだろうな。目を覚ましてまたすぐ自殺しようとしたらどうしよう。付き添っていた親に、姉から目を離すなといった。
生きていることは、死ぬよりつらいという姉の考えが、痛いほど分かった。私も同じ考えだった。ただ私は生きる苦痛が姉より少なかったし、姉のように医学生で薬品にアクセスすることもできなかったので、死ぬというハードルを積極的に乗り越えるほどではなかっただけだ。
真面目な姉が長い間考えて、周到に準備して決行し、完遂まであと一歩のところまで行ったのに。すべての苦痛から解放されるはずだったのに、目が覚めたらまた人生に引き戻されている。絶望だろうなと思った。
★ ★ ★
幸い、優しい姉は、助かってから「死にたい」と家族の前では言わないでいてくれた。でも、最近始めた姉のブログには、死にたいとか、〇〇だったら死のうと、たくさん書いてあった。
私が、姉が自殺未遂をしたときには逃げていた、問い。それは、
死にたいと思う人間に生きてくれと強要する資格が誰にあるのか?特に、その人の一生を面倒見られるわけではないのに?それがその人の自由意志なら、尊重して、残されるものは助けられない痛みを背負うしか、できないのでは?というもの。
理想は、その人の根本的な問題をともに解決して、「生きていてよかった」と自然に思ってもらうまでその人生に並走するのが良いと分かっている。
それは私たち姉妹のような育ち方(毒親的な)をしたものには簡単なことではなくて。幼いころから育ち直さないといけないので、単にアイスクリームをおごったら解決する話ではないのだよね。
人は、近しい人が死にそうになると必死で助ける。それはひたすら自分のため、その人がいない世界に残される自分の孤独と悲しみから逃れたい自分自身のためなのだ。
生きてさえくれればいい、あとはその人の人生が野となろうと山となろうと知ったことではない。それを、ある人は生きているだけで価値を感じてくれて嬉しいと思うかもしれないけど、姉の場合はきっと、助けておいてそれはないだろう、と言いたくなるよね。
どうしたらいいか、わからない。