中学受験時代 家出(下)

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土管の夜

夜、塾の授業が終わるのはいつも午後9時を過ぎる。塾の1階のロビーは、子どもを迎えに来た保護者たちでごった返して、みんな週末テストの結果を見ようと、掲示板の前に集まってきていた。

私と友達は、そのロビーをこっそり抜けて、外に出た。

とりあえず交通費を浮かせるためにバスに乗らず歩いて、その市内で一番大きい中央公園に向かう。途中、コンビニで、約束通り友達と2人分のおでんを買う。

中央公園についた。遊具の中に、土管がある。雨が降りそうだった。

「とりあえず落ち葉を集めて火をつけよう」

友達と手分けして、落ち葉や枯れ草を集めて、土管の中に運び、火をつけた。火は、土管の天井まで届く勢いで燃え上がり、土管の中は少し暖かくなった。

私たちはその火を眺めながら、土管の中でおでんを食べた。

おでんもなくなり、集めてきた枯れ木もすべて燃えつきて灰になる頃になると、友達はもう帰ろうと言い出した。それもそのはず、彼女は、「塾のあとにちょっと公園に寄る」くらいの感覚でついてきてくれたのだ。家出をするつもりも必要性もなかった。

ここで帰られたら困る。

夜10時をとうに過ぎている。一人で公園で夜明かしするのは怖すぎる。私は友達をなんとか説き伏せることに必死だったが、彼女は「親が心配しているよ」などと見当違いなことを言う。私はその親から逃げているのだ。

塾長の涙

友達が、とりあえず親に電話をしたいと言うので、近くのコンビニまで案内してあげた。そこに、公衆電話があるのだ(その当時は携帯電話などなく、連絡はみな公衆電話からだった)。

友達が親に電話している横に立って、

「うん、うん。今、塾の近く。これから帰るから」

などという会話に聞き耳をたてていると、コンビニ前の道路の向こう側に、ブレーキ音をひびかせて一台の黒い車が止まった。運転席から中年の男性が、バタン!と大きな音をさせて降りてきた。こちらに駆けてくる。みると、塾の校長先生だった。

時間差で、助手席からも、見覚えるのある女性が降りてくる。母だった。

「あ、見つかった」

私はその光景を見ながら、ぼーっと思っていた。

塾の先生は道路を横断して、私と友達に駆け寄るなり、私たちを抱きしめて、大声で泣いた。

私はびっくりした。大人の男の人が泣いたのを見たのは初めてだった。そして大号泣だった。うおー、うおー、と男泣きしている。私は衝撃を受けて、抱かれながら呆然とそれを見ていた。

母も、少し離れたところに立っていた。

「見つかってよかった。さあ、お母さん、もうあまり怒らないで。お家に帰ろうね」

ひとしきり泣いたあと、塾長は顔を上げて笑い顔をつくると私の背中を押し、母の方へうながした。母は、照れたような、困惑したような表情で少し笑った。その日の夜は、家に帰ってからも母は成績について私に何も怒らなかった。

塾の校長先生は、算数を教えているので、塾の授業後はいつも大勢の生徒が質問したくて殺到して、話をしたい保護者にも囲まれている。そんな忙しい先生が、生徒の質問も保護者対応もすべてを投げ出して、車を出して、母を乗せて広い市内を走り回って探してくれた。

私は、自分がいなくなったことを心配する人がいるなんて知らなかったし、自分の行動で、大人がこんなに泣くなんて思わなかった。

この先生は、私に、中学受験時代を生きる確かな力をくれた。

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